村上春樹を読むと思考が村上春樹に毒されます

村上主義的悲しみ


悲しみというものを僕はそのまま味わう。

それは100パーセントそのままの悲しみを
悲しみとして味わうということだ。

僕にとっての悲しみは
巨大な氷の塊みたいなものだ。


初めてそうやって悲しみを味わったのは、
13歳の初夏の時だった。

夏を予感させる確かな日差しと、
爽やかな風が吹く校庭で、
僕は体育座りをしていた。

運動会練習の真っ最中だった。

何の練習だったかは思い出せない。
いろんな人の笑い声が響いた時、
僕の頭に1つの疑念が過った。

僕はこれ以上楽しい学校生活を
送ることはできるのだろうか。

あるいは学校生活に限らず、
これ以上輝く時間は来るのだろうか。


僕はこの頃心底学校が好きだった。


クラスメイトたちと笑いあう事が
世界中の何よりも大切だと思っていた。


この溢れんばかりの輝きを
僕はこの先の人生で果たして
手にすることはできるのだろうか。


そう考えた時、
僕の頬を涙が静かに流れた。
そして僕は氷に触れた。



それが始まりだった。



僕はその氷を目の前にして、
触らずにはいられない。

それは一度触れれば、溶けきるまで
もう離すことはできない。

僕と氷は磁石のN極とS極のように
ぴったりとくっつく。

そういうものとして僕は受け止めている。

もちろん、そういった受け止め方をしてから
それなりの長い時間が経っているから、
という理由があるから、こうして整理が
出来ているというだけの話だ。

ぺたりと手で触れると、
ひやりと確かな冷たさがある。

氷は冷たい。それは不変だ。

人は、生きるすべてのものは、いつか必ず死ぬ。

それと同じだ。
変わらない。

触れた時に、
その冷たさに一瞬僕はびっくりとする。

氷は冷たい。わかっている。
物心ついていない子供ですらわかる。


わかっていても、だ。
それでも触れ続ける。
冷たさは変わらない。

片手で触れる時があり、両手で触れる時があり、
寄りかかる時があり、ぺろりと舐める時もある。

冷たさが僕に浸透していく。

じっくりと、確実にそれは浸透する。
それは新しい政策が社会で
本当の効力を発揮するのと
同じくらいの速度だ。

ただひとつ異なるのは、
氷はいつか必ず溶けるということだ。

冷たさに凍えたり、溶け出した氷の繊細な
香りに包まれたりしながら、
少しずつ溶かしていく。

なんでこんな冷たさから離れられないんだ、
と思う時もあれば
永遠にこの香りに包まれて沈みたいと
思う時もある。

その両者の違いについては、
はっきりと僕の中でもわかっていない。

なんにせよ静寂に包まれた僕の心の深いところで
僕は悲しみを味わう。

そして徐々に氷は溶ける。
氷は熱によって溶ける。
それも変わらない。

そうやって最後にはかけらも残らなくなる。
びしょびしょになった僕もやがて乾いて、
香りも全くしなくなる。

悲しみは消える。

そしてまたいつか必ずやってくる悲しみを
また同じように100パーセントで味わう。

何度も何度も同じ流れをなぞる。

だが果たして僕の熱は不変のものだろうか。
あるいはすでに僕も
小さな氷となっているのだろうか。

いずれにせよ、大した違いは無いように思えた。

僕ができることは悲しみを
悲しみとして味わい続けるだけなのだ。



ps.最近1番驚いたのは上北沢が下北沢から
     思ったより遠いことです。

今日も何かを間違えた

日々の中で間違えたこと ずれたことを綴ります。 岩崎キリン:iwa191cm@gmail.com

0コメント

  • 1000 / 1000