他者から認められたい、
自己を価値のある存在として認めたいという欲求
僕は自分の承認欲求を考えてみた。
僕は果たして認められているのか…?
そもそも認められたいか…?
認められなきゃいかんのか…?
認められなくてもええやろ…
認められるってなに…?
価値…?
価値の有無ってこと…?
人類みな平等ちゃうんか…?
価値なんて等しいやろ…?
クエスチョンマークが頭を埋め尽くし、
なぜか関西弁がぽろぽろと零れ始めたので、
自分の認められたいことを考えてみた。
仕事…?
仕事ではないな、仕事ではない。
断じてない。
仕事で認められたい者は仕事中に
こんな記事を書かない。
クソな仕事しやがって…と
陰で言われようがどこ吹く風だし、
面と向かって言われたら
すいやせぇ~ん、へっへっへ…
とこれまたのれんに腕押しである。
褒められる時間にも、怒られる時間にも、
生じる金に違いはないのだ。
じゃあ何だろう…
センス…?
服装のセンス…?
服装はそこまでこだわりない。
自分の好きなものを着たいだけである。
音楽のセンス…?
これはたしかに
承認欲求のあるものかもしれない。
しかしこれは他者に認められる必要がない。
自分が認めているからである。
僕の好みの音楽は(僕にとって)
最高にセンスが良いと思っているし、
メジャー過ぎず、マイナー過ぎず、
周りで知っている人はほとんどいないが、
音楽好きな人はほとんど知っている、
(だけどメジャーな音楽も好きだよ)
それでいて僕らしいような音楽で、
だけどちょっとギャップのあるような
音楽もわりと好きだったりして…
認められたら嬉しいけど認められなくても
別に気にしないし、他の人も音楽なんてそんな
感じて考えてると思うんですよ。
だからってわけじゃないし、
他意も無いんだけど
夜に駆けるの解説キモすぎてワロタ
元ネタの小話もクサ過ぎて2度ワロタ
なんなら小話なくても歌詞読めば
ちゃんとわかるわと思って3度ワロタ
でもヨルシカの歌が全部こんな調子なら
ヨルシカの歌詞だけ読んで小話の大元を
あてるゲームして楽しみたい
ヨルシカ好きじゃないけど
この手の奴なら星野源の「アイデア」が
歌詞も音も映像も込みで表→裏→全
って感じの流れになってて好き
加えて言うなら歌詞意味深系に置いては
やっぱりスピッツの右に出るものはないと
思うけど考えすぎてもなんだか野暮だし
詩的な言葉と雰囲気と併せて含み程度に
楽しむのが良いと思うんだよね。
得意な事だけ早口で喋るオタクみたいになった。
承認欲求が文章に乗っかった時、
こんなにキモくなるんですね。
皆は何を認められたいのだろう…?
シーシャの味は自分では認められませんが、
このまえ鈴木ジャンボ鼻男が褒めてくれて、
にんまりしました。
PS.現代のボニー&クライドこと
レイ&メグが先日わが家に来た時
こうしてたので、
ホスピタリティあるやん…
と思ったところ、
こうでした。
偽ホスピタリティを許すな。
0コメント