僕は父親を心より尊敬している。
穏やかで、滅多に怒ることはない。
ひとつの会社に勤め上げて、
日本国民の平均の年収を得て結婚し、
僕と兄を育て上げた。
23区のはじっこのベッドタウンにマンションを
購入して、車を買い、年に何回か旅行に出た。
会社では古株となって、それなりのポストに
ついている。
運動不足でいくらか腹は出ている。
健康診断ではどこかしらが引っかかる。
毎晩何杯かの酒を飲む。
酔っぱらうことはない。
少しだけ陽気になる。
僕も兄も手がかからなくなり、家を出た。
貯蓄もそれなりにある。
身体の自由が効かなくなったら、
貯蓄で老人ホームにでも入る。
貯蓄が無くなったらマンションを手放す。
あるいは兄に渡すか、やはり売り渡して
その財産を家族に残す。
あとは死を待つ。
まさしく平均的な人生だ。
"普通"と形容してもいいかもしれない。
そんな父親を心より尊敬している。
この普通を守るために、いったいどれほどの
苦労を重ねたのだろうか。
数々の面倒なことや厄介なことを
なるべく真っ当な方向で片付けるために、
どれだけ頭を悩ませたのだろうか。
しかし父親はそういったことを全く
家庭内に持ち込まない人であった。
全てが終わった時に、酒を飲んで
陽気になった時に笑いながら話す。
そんな父の姿を見るたびに
こうありたいと思う。
そして僕もおよそ平均的な人間となりつつある。
けれどたまに考える。
この"普通"を手放してしまいたくなる。
自分の心の身勝手な部分が膨らんで
そのままその気持ちの赴くままに
飛んでいってしまいたくなる。
子供が出来上がった積み木をたやすく壊すように
いままで重ねてきたものをがしゃんと壊して
糸の切れた凧のようにふらふらと
どこかに行ってしまいたくなる。
"普通"がなくなりつつある現代で、
僕をつなぎとめているのは打算と
家族と友人と己の意気地のなさである。
父も若い頃にはこんな気持ちを
抱えていたのだろうか。
時々、自分をぞんざいに扱う気持ちが溢れる。
自分に価値が無いとかそういう意味ではないが、
人生というものに今ひとつ真剣に
向き合えていない自分の存在がある。
そんな気持ちが溢れる時は
ふらりとこの世から退場したくも思う。
かと思えばどうしようもなく生きる楽しさを
噛み締める時もある。
石にかじりついてでも生き続けたくなる
気持ちも僕の中にたしかに存在している。
面倒な仕事が終わった後のビール
誰かと心を交わしている時の心の豊かさ
突然与えられる自然の美しさ
そうしたものを享受するたびに
生きていて良かったと思う。
どこかで僕が足を踏み外して
"普通"でなくなるのかもしれない。
それはその時にならないとわからない。
果たして僕はなにをどうしたいのだろう。
それが解ろうが解るまいが大したことでは
ないような気もする。
うだうだと自分の殻の中で堂々巡りの
考えを続けている、僕は万年厨二病です。
ps.父と散歩していた時、父が路傍の花を
おもむろに撮影してアプリで名前を調べて
いました。
そして、班いりヤブスズランということが
わかり満足気な顔をしていました。
適当な散歩をしてぽつぽつと適当なことを
話し、花を調べたり、面白そうな店を
見つけたりする。帰ったら一緒にお酒を飲む。
僕が彼女ができたらしたいことを、
まさか父親とするとは思ってませんでした。
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