セッション見たよ

ネタバレします。


セッションを見た。
その後レビューを見ると
「体罰」「体育会系」「スポ根」
なんて書いてあった。

あのね、アホかと。
君たちは映画の表層の表層のそのまた表層、
上澄みのうっすーいとこしか見れていない。

そんな君たちは「のだめカンタービレ」あたり
見て上野樹里と玉木宏にうっとりして
いればいいわけ。ね。

この映画は「才能」「狂気」
なんて言葉でよく表現されるんだけど、
まぁ「狂気」が9割なわけ。

主人公が鬼教官に鍛えられて
挫折→和解→感動のラスト
なんてフィナーレではないのよ。

狂気で締めるの。

この映画はサイコ映画な。
それを念頭に置かないと
本質を掴めない前述みたいな
アホタレが生まれちゃうんだよ。


教官役のフレッチャーは「狂人」で、
もう音楽のこと以外考えることができない。

最高のバンドを創り出すために
恐ろしいほどの情熱を注ぎこむ。

そこに「教える」とか「育てる」なんて
気持ちはサラサラないの。
チャーリーパーカーのエピソードを語る
シーンからもわかるように、
狂人を求めてるのよコイツは。

だから教え子が自殺した時も
交通事故として伝え、
その才能を惜しむ素振りをする。

もちろん本心でもあるんだろうけど、
その裏には
「教官を続けて狂人を発掘する」
ってことが大前提にあるわけ。

教え子の死を悼む行為は
飴と鞭でいう飴にあたるのよ。

振り返るとフレッチャーの行動は
すべてこの「飴と鞭」というシステム
に沿って動いている。

ニーマンを引っ張り上げ、叩きまくり、
けしかけまくるのが鞭。

バーで話し合い
「君が成長するため」
というのが飴。

そして、JVCフェスでニーマンに伝えていない
新曲を演奏するのが最後の鞭。

この鞭をつかみ取り、逆に引っ張って
自らブチ千切ったニーマンが自らの手で
飴を手にする。

あれはそういうシーンなんだよ。

勘違いしないでほしいのは、
フレッチャーの鞭は決して期待とか
愛情に依るものではないということ。

「次のチャーリー・パーカーは
   決して壊れない」

と言うシーンがある。

フレッチャーは壊れるのは偽物だと
心から思っているんだよ。

チューニングが合わないと言って
確かめるシーンで
最初に追い出されたトロンボーンの
「メッツ」
チューニングはずれていないが、
叱責に耐えられずに壊れてしまう。

彼はチャーリー・パーカーに成れなかった
者の代表として描かれているのだ。

その後彼は全く描かれない。

これはフレッチャーが壊れた者に
用はないということだ。

よって教え子の自殺も今教えている
者たちへの「飴」に昇華させているのだと
僕は考えるね。

フレッチャーはまともな人ではなく、
ひたすらに高みを目指す狂人である。

ラストのシーンでフレッチャーと
ニーマンが瞳を合わせてほほ笑むのは
ニーマンが本当の父親ではなく、
フレッチャーという狂人の親を
追いかけて、ついに自分も狂人の域に
達したからである。

あの笑みは狂人同士の笑みなのだ。
同族としての笑みなのである。

四の五の言ったがラストの10分間は
本当にしびれる。
鳥肌が立ちっぱなしだった。

決してさわやかなサクセスストーリー
などではなく、万人にオススメできる
映画ではない。
だがストーリー、役者の演技、
カメラワーク、すべてが迫真である。
間違いなく名作。

見といてよかった。

PS.冷凍庫の調子が悪く、3/6箱のピノが
      こんな感じになりました。
      FucK!



今日も何かを間違えた

日々の中で間違えたこと ずれたことを綴ります。 岩崎キリン:iwa191cm@gmail.com

0コメント

  • 1000 / 1000